昭和46年08月04日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」

 取次者に対する御理解だと思いますが。お道の信心をさせて頂きます者が、例えばこの九十二節等を頂くと、結局自分の心次第だとおかげは、例えば先生が早起きをすれば信者も早起きをすると言う事はですね、私は中心になる者が早起きをすれば、家族中の者が早起きをするようになる。というふうに頂いても良いと思います。中心になる者が力を頂けば、例えば家庭でいうなら、家庭中がおかげになると思う。
 例えば商売をする人が、お参りをした時と、お参りしない時の開きというか差というか、おかげがはっきり違う程しの、信心をさせて貰わなければいけない。参っても参らんでも大した事はないというなら、もういよいよこりゃねつまらんですね。お参りをすれば、お参りをするがた、修行すれば修行するがたおかげが違うと。そこにはっきり感じれるようになるから修行も楽しゅうなる、お参りも又せにゃおられんと言う事になる。そういうところをですね私は教祖様は教えておられると思うですね。
 諸事に身を慎み、いわゆる、修養にこれ努めるわけです。朝寝をせずに早く起きるという事は信者が早く参り、遅く参りにかかわると言う位にはっきりしとるのですから、私達の信心もそうです。確かに神様は一体どこに参っても、生神金光大神、天地金乃神。けれどもそこの中心である取次者のいわゆる、守り守りの力によって、神のヒレイが違うてくると。守り守りの力と言う事はどう言う事であろうかと。
 合楽教会の場合なんかは、私に力もないのにやはりおかげを受けておるというのは、力によってとおっしゃる、力とはどう言う事であろうかと。昨日ちょうど親教会の夏の御大祭でしたから、体が大変きつうございましたから、お祭りが済むと同時に帰っらせて頂いた。帰らせて頂いたら本当に、ああ先生戻って頂いてよかったという人が二人、他所の教会の二人とも、一人は家族五人連れで、遠方の教会から参って来ている、二度目のお参りである。一人はちょいちょい六回参ったというとりますね。
 昨日合楽には六回お参りしました、と言いよんなさいました。お参りしてきておる そしてそれに、それぞれ自分のおかげを頂いた教会があるのだから、その教会でよかりそうなもんだけれども、ここに参って見える。教会御広前が大きくて、最近こうりっぱに出来たから、中の信心もやはり、立派な様に思いなさったのかもしれん。ところが今言う様に、私には力はない、けどいっぺん参ったら、六回もやっぱり参ってくるという程しに、何かがここにあるに違いない。
 昨日実はこう言う事をお伺いに見えた。私の方の教会では、先生が何にも分りなさらんとこういう。だから頼りがない。長男が嫁を貰うという、だからその親の親に気にいって貰うのでなくて、息子が気に入って貰うといっておるのである。まぁとにかく御神意でも頂いて、お参りさせて頂いて、話を勧めようと言う事になった。それでその方が或る教会に、やっぱりそこの近所の教会に、いよいよ分りなさる先生がおんなさる、ところがこの結婚はいかんとこう仰った。どうしてでしょうかという。
 四年か五年か先しよると別れるごとある事が起こってくる。だからこの結婚はいかんと、どういうわけでそげん別れる事になるでしょうかと、尋ねたところ、あんたところの、おじいさん。家内のお爺さんもうここに参って見えるお方が七十くらい、その嫁さんのお父さんになるわけです。そのお父さんが無理な結婚して、無理な別れ方をしとんなさる。そのためにその嫁さんが、気狂いになって悲惨な死を遂げておる。それでそのまいうなら祟りが孫にきてるというわけなんです。
 それでわざわざですね、そのおじいさんの里に聞きに行かれた。 八十幾つになるおじいさん、その当時にその自分ところのおじいさんとよく知っておられるという方が、二人その村におられたからその人を尋ねていった。そして私の方の家にはそう言う事があったじゃろかとたずねたところが、あなたのところは決してそげな事はなかったよ、結婚もいっぺんしかしなさいませんでしたし、大変仲睦まじい一生を送りんなさったという答えであった二人の人が。
 そして又教会に行ってから、家は調べに行ってこうこうでしたと言う事を言うた所が、先生は神様の仰る様に絶対間違いなかと仰った。先生そげな事があるもんじゃろかというて、その昨日お伺いなったのがその先生でした。私共の場合なんかそういう場合、どう言う風にお取次させて貰うだろうかと、例えばこれは御神意が余りよくないから、止めておきなさいというのは、よりよいおかげを頂く事の為に、願うそういうのである。よし例えばならまぁ私共も、ま二十年前は御霊様を拝む場合。
 そういう関係の事との時代がありましたけれども、その為に取次者がおるじゃないかとと私は思うですね。先祖の中にこういうお粗末御無礼の者があったから、孫の結婚にこういう、災いが起きると。けれども本人達はどうでも、結婚したいというておると、ですからそれは先祖のところに、どういう御粗末、御無礼があるのが分りませんけども。そこを取次者、いわゆる金光大神の手代わりさせて頂く。
 ここでいうならば私がですね、その事を詫びたりおとりなしさせて頂いて、結婚なら結婚のおかげを頂くようによしそれが何年後に、困った事が起こってくると言った様な諸事、例えばお知らせ頂かれてもそこんところを私は、おかげが頂かれるように、例えば治らん病人でも治る程しの、かなわぬ事でもかなうのが金光様の御信心なのだ、だからそう言う事が出来る事が、私は守り守りの力じゃなかろうかと思うですね。
 例えば霊能者がです、そう言う事がまぁお知らせがあったと、これは二年先にこう言う事が起こってくるぞ、先祖の御霊様がこうだったからこうなるぞと、いうだけだったら、私は取次者の値打ちはないと思う。御粗末もあろう御無礼もあろうけれども、そこを詫びて御許しを乞うていく成就せん事でも、切にと氏子が頼んでおる事であるならば、それをお願いとして整うようにお願いをしていくという、それが成就するしないが私は守り守りの力だとこう思う。
 というふうに思うのです。私共ね主税が力が足りません、力がないから出来ませんけれども、御神意はこうだけれども、こうお願い致しますと、例えば御神意はまぁだいっ時ばっかり待っとくと先によい縁談がある、こう言う事が分っておってもです、どうでも結婚したいというならば、その事を願うて幸せになっていくように、願うていくと言う事、これが私は力だというふうに思うね。まあそれが私共の場合成就したり、しなかったりですけれども。
 そこからですけれども、より良い道が開けてくる事だけは絶対、氏子が願うた事をおとりなしをして頂いて一生懸命お願いをする。例えば私が所がその本人が言う様に、願う様におかげが頂けなかった、けれどもそういう期間にですね、ああやっぱり結婚せんがよかった、こういうおかげを頂いてと言う様な事が段々に、そこに成り行きというものが、だからそこ辺の所私は只体得しとる事は、自然の成り行きと言う事を大事にしていく。その成り行きそのものが、神様の御働きとして、私は皆さんに聞いて頂く。
 その事は成就しなくても、その事を通して信心の稽古が出来ておると、その事のおかげで、よりおかげの道が開けてくるというのが私は合楽。だから取って付けた様なおかげが少ないですね合楽では。そげないうならばポクポクさん的な事は余り申しません。たまにないじゃない。お腹の中の子供が男やら、女やら分らんのにお名前を頂きに来る人があるとですからね。けれどもこれは私はある意味で神の権威にかけてです。
 神様がお知らせを下さるなら、お腹の中でお名前を頂いとる例が沢山ある。沢山というか何人もあります。やっぱり太郎と頂きゃ男が生まれる。花子と頂きゃやはり女が生まれております。だからそう言う事は力ではないと私は思う。力というのはいわゆる、金光大神の御手代わりが本当に出来ると言う事、どうぞというてお願いに来るならば、それをお取次させて貰ってお願いをする。御粗末御無礼があって本人の信心が出来ず、信心が出来ずおかげが不成就で終わろうごとあるならば、取次者が修行もさせて貰います。
 お詫びもさせて頂きますというて、お願いをさせて貰うのが取次者の役目である。そしておかげを頂かしていくのが私は取次者。所がここの場合はです、それがおかげになる事もあれば、ならぬ事でもある。けどここで一番有難いのは、おかげにその事はならんけれども、その間にその事成る事が成就した事よりも、よりおかげの道がそこから開けてくると言う様な私しは教導、それが私は合楽の生命のように思う。
 燃もそれを私が確信をもってお取次させて頂く、信心しておってもそれはある、難儀な事が信心しよってどうしてじゃろかと言う様な事がある。けれどもその事がです、その事が絶対おかげの元になると言う事だけは確実です。私はこれは断言するですね私は。例えばなら信心しよっても、雨は降る風は吹く、けどもその雨を風をです、本当に有難く頂いてそこを辛抱しぬいて行けばです、あの雨に遭うたおかげで、風に遭うたおかげでこういうおかげが受けられると言う事になる。
 昨日あの少年少女会が御本部に出発致しました。四十名でございました。付添いの人達共に四十名でした。中に一人二人体が悪いという子供があった。ところが親の信心がしっかりしとりますから、おかげ頂きない。御本部に行けばおかげを頂くがというて力づけて一緒に参拝させた。皆が帰った後に一寸その事が気にかかりましたから、どうぞまた途中で痛み出したり、あちらで困った事参加出来ない様な事があってはいけんから、お願いをさせて頂いとりました。
 そしたらあの秋永先生のところの弟息子の英治君というのがおりますね、英治君のあの英治という字頂いた。英治君とは英国の永という字が書いてある、次には治めると書いてある。そこで私の心が安心した。おかげ本人の思いきり親の英断ね、あれが若し信心が薄かったら、そんならこげんあるのに途中で具合が悪うなってはいけんから、人に迷惑を掛ける様な事があっちゃでけんから、まあ止めとかんのというのが常識、ところがです、神様へ向かうて行くんだから、子供なりにもです。
 さあここはいっちょ頑張っていかんなんとこじゃろうの、後からお母さんが一生懸命お願いをするけんと言った様な、そんな行き方でやっている。英断の英ですね。治という字は治(おさ)める。治(なお)るという字ですね。信心にはそう言う所があるね。どうでしょうか、神様から御許しを頂かきゃやる。神様がいかんといいなさりゃやるまい。こげん具合の悪かっちゃけんと言った様な事ではね、そんなら止めとくがよかばのとしか言わんでしょうね私は。
 けどもそこんところをもう一つ、日頃の信心にものいわせて、元気な心をもってそれに打ち向かうていくと言う事。そこにね治(なお)るというおかげが受けられる。と言う事は今日私が言う事ですが、それが向こうで治るとか治らないとか、病気がないと言う事じゃないと思う。向こうで成程痛んで苦しむかしれん、人に迷惑を懸ける様な事があるかもしれん。その英断というものがです、それが治ると言う事につながらないかもしれないけれども、その事がです。
 本人にとっても例えば親にとっても、又その後の事がその事をその様な頂き方をすれば、よりおかげの道が開けると言う事だけは、絶対のものであると言う事なのです。私はねそういう例えばそういう英断というか、させられる私しはものがここでは力というのではなかろうと、ここではそういう人達が合楽の皆んな中心になっとりますよね。お取次を頂いて、あの時に例えば思いきった、あの時に思い切った修行が出来た。
 飛躍が出来た、それがその後の信心のいわばまさかの時の原動力に、段々育って行っておると言う事。合楽の方達の場合は、先生に力はないけれども、信者にしっかり力を作らせるという働きがある様ですね。そういうところをです、神様がおかげを下さるので、私のそういう生き方に神様が合流して下さるように思うです。まあ今日の九十二節を頂いて、早く起きると遅く起きるとは、信者の参詣の早い遅いにかかわると言う事をです、私共の信心がです。
 例えばこれを商売でいうならば、お参りをした時と、お参りをしない時は、はっきり違うくらいな信心を頂けと言う事だと思う。すこし本気で勉めさせて頂いたら、もう神様が本気で勉めて下さると言う様なおかげを頂かして貰わにゃいけんと思う。そういうおかげの受けられる信心だと言う事を教えておられるんだと思う。次にこの守り守りの力という事をです、私はここではなら力がある訳ではないけれども、只今申しますような意味でおかげを頂いておる。
 一人の昨日一緒に参って来とった一人の方は、二度目である。今日家族五人連れで昨日参った来ておられる。お父さんがお道の教師をなさって教会を一時持たれた事があったけれども亡くなられて、教会を継ぐ者がいない。そこの長男に生まれておられるけれども、信心を嫌って教会になる事を嫌って、他の仕事に転々としておられる。ところがその転々と変わられる仕事が何をしても思うようにならん。
 昨日はそこんところのお伺いに見えられた。私はどういう一つの指針をもって進んだらよいかと、だから今の商売でよいかとこういわれる。そこで私は申しました。いわゆる私の成り行きを大事にせにゃいけんという生き方と今の頂いとられる御商売をね、本気で売れるとか、売れないとか、儲かるとか、儲からないは別として、本気で修行と思うてさせて頂きなさい。その内に右とか左とか自然に開けてくるでしょう。私のお取次はこういうふうなお取次ですね。
 それはいかんばいそれは止めなさいと言った様ねお取次ぎはした事がない。もうここにはっきりと右と左の二つのものがあるならば、それは右がよかばい左がよいばいと言いますけどね、そこに今商売の仕事をしておる。その仕事がどうも思う様にならん。だから他に商売替えをしたいと言う様なお届の場合、絶対に今のままと私は申します。そうしてね自然の働きを、こっちは働きじゃなか神様の自然の働きを私は信じとる。
 だからそうしてあなたがお願いをして、それを修行と思うて信心させて頂きゃ、右が左か神様が自ずと、道は開かして下さるんだと、もう実におだやかなおかげに開けてくるというのが私の生き方。それで皆がここでおかげを受けておる。だからこれはひとつ力ではない。私はそう信じておる。自然の働きの中に、天地の親神様の働きがある事を、心を神様に向けてさえおけば。
 自然の働きと私共の働きが一つになるという事は、その自然の働きを、やはり苦しいなら苦しい、今修行させて頂いておるという頂き方、そういう頂き方ができる時、自然の働きの中にそこからよりよい道が絶対に開けてくる、というのが私の持論です。まぁそれを私は確信をもって皆さんに御取次さして貰うと言う事が、力というなら、まぁそれが力かもしれん。それはどうするの、どうしたらよかじゃろかと言う様な事はいえない。今のままがんばんなさい。
 それを本当に修行として頂きなさい そこからたとえば開けてくる道が本当の道だと。必ずだからそれに、その商売をいつまでもしなけりゃならんと言う事ではない。よりよい道があるなら神様は自然の働きの中に、より良い道を開いて下さる。これはきついから気にいらんから。そこでスパッと止めると言った様な事では何時までたっても同じような事の繰り返しになる、と言う様な私は説き方をする。
 神は一体じゃによって、私はその神は一体じゃによってと言う事がです、只今私が申します成り行きを大事にする、自然を大事にするという、そういう働きの中に、天地の親神様の働きがあるんだという働きをです、私は信じて皆さんにお取次させて頂く。そこんところを信ずる力があるないと言う事が、力と言う事なのじゃなかろうか。これは余談になるかもしれませんが、きのう善導寺の御大祭に若先生が祭主を仕えられた。それはもう本当に堂々たる態度で、お祭りを仕えられました。
 お祝詞なんかも今の口語文でこのごろ行徳先生が、親先生の七十の古稀の祝いの時の御禮祭の時に奉上されたように、いわゆる、祝詞言葉でなくて、人に物言う様な表現で、祝詞を奉上されました。ですからうしろで拝まして頂くものも、それがよく分って本当に感動致しました。誰でも分る。難しい言葉じゃないから、それで私に本当にある、私はこういう行き方も有り難いなあと思わして頂よったら御心眼にね。
 一陣の風がス-ッと吹いてきたと思ったら、柳がねすうっと横になる様にしだれ柳が下に幽霊がね、その風にあおられてから出とるところを頂いた。なるほどちょっと凄まじい感じですね。風がス-ッと吹いて来て、柳がこうなって、その幽霊もその下の方のころち言いますか、これがこう風に、して幽霊が出ているところ柳の下にまあ凄いとか怖いとか言う事でしょう。
 けれどもね。確かに絵を見ても芝居をみても、そういう状況を見るなら怖いと思うけれども、それは本当のものじゃないと言う事、そういうものはおらんと言う事、いうなら絵そらごとと、あぁ成程信心ちゃ合理的な事じゃいけんなと言う事を、私は思いましたですね。どう言う所かというと、神様に聞いて貰うのじゃなくてから、信者に聞かせる為の祝詞のようなもの、根本的なところが違うておる。
 それは嘘だと言う事、だけれどもその祝詞そのものはです、やはり本当に信者に聞かせようてんなんてんな言う様な浅はかな、合理的な考えを抜きにしてですね、それが唱えられるならば、それはそれでも良いしょうね。けどもそれをそのう思い立った所にですね信者にも分らせよう、神様にも分らせよう、それでは神様には通じん。神様の祝詞というものは、神様に申し上げるもの、信者に申し上げるものじゃないそうでしょう。だからなら私共の様に黙って御祈念をするだけと言った様な場合、それがある訳です。
 例えそれが口語文で読んでも信者にわからせる為のもの、本当に神様に聞き届け頂く事の為にしたら、それはそれでも良いでしょう。けれどもこう言う風にいうたら、信者も皆な分ってあの祝詞を聞いて感動するだろう、そういう感動は本当のおかげにつながる感動じゃないという意味の事であると私は思うのです。だからそう言う様な事がですね、まぁ合楽で力というのら、力かもしれませんですね。守り守りの力でおかげが違う。拝む神様は一体だけれども、同じ祝詞を奉上させて頂くでも。
 だれが奉上するのと、私が奉上するのとは中身が違う。そう言う所が私共じゃ分らん。実際は。ああ良いなあ、こげなのは信者も一緒に感動して、こういう行き方も良いなあと思うだけかもしれません。けれども神様から、そのようにお知らせを頂いてみて、なるほど神様がおっしゃる通りに、これは絵そらごとだと、言う事が分る そこでなら今度は、私がまた親先生がおうちでやったように、やれと言われるかもしれません。やるにしても私の場合は、だから内容が違うてくるだろうと思うのですそれは。
 だから力というなら、そこが力かも分りません。そういうところが。けれども直接助かる、助からないと言った様な事にはさほどの関係はないと思う。とにかく今日の九十二節を頂いて、お互いが修行をする、お参りをする。それなら修行をしたがた、お参りをしたがた、お参りした日としない日はころっと何かがそこに反応が示される位な信心は頂きたいものですね。
   どうぞ。